子どもの頃、「口の中のツバは汚くないのに、一度吐き出すと汚いのはなぜか?」と思ったことはありませんか。
他人のことを気持ち悪いと思うのは、あれと似ています。
自分と他人との間にある見えない壁の正体です。
目次をタップすると見出しに飛びます
人間は自分のことをえこひいきしている
「完全に殺菌したシャーレ(理科の実験で使うガラスの皿)に、ツバを吐いてください。」
とお願いすると多くの人は何も抵抗を感じずにやってくれるでしょう。
ところが、「じゃあその吐き出したツバを飲み込んでください」と言うと、嫌がります。
完全に殺菌されたシャーレの上に吐いたのだから、自分の口の中にあった状態と全く一緒にも関わらず。不思議ですね。
米粒ひとつとってもそうです。年季の入った、テーブルやイスが油まみれの中華屋さんでチャーハン食べていたとしましょう。
自分の服にぽろりと落としたものであれば躊躇せず指でつまんで食べてしまう人は多いですが、テーブルに落としてしまうともう食べない、という人がほとんどです。
自分の服は、店に到着するまでに外で排気ガスを浴びて汚れているかもしれないのに。
3秒ルールすら受け入れられない人
子供の頃、食べ物を地面に落としても3秒ルールだといってフーフーして食べていませんでしたか?
大人になるとだんだんそれも出来なくなるから不思議ですが、子どもの頃から出来ない人もいます。
そういう人は、自分と外部の区別が激しすぎるんでしょうね。
水洗便所の功罪
現在の日本は、下水道が整っている自治体であれば大半のトイレは水洗式です。みんな自分の中にあったものをみないで済むように出来ています。
TOTOが張り切ったのかどうかはわかりませんが、極力目にしないでも済むような構造になっていますよね。洋式だと尚更、出した瞬間にレバーをガチャンとやってしまえば、全く見る影なしです。
お医者さんは、毎日自分の便の様子はきちんと確認しなさいと言いますが、今のトイレのシステムはそれがやりにくいように出来ています。検便の時も困りますよね。拾おうとしたら完全に水没しているんですから。
ところで、汲み取り便所を知らない子どもがたくさんいるみたいですね。それはそれで問題ありのような気もします。
内蔵は厳しい
自分の腸を身体から取り出したらとても気持ち悪いでしょうね。私は平気でいられる自信がありません。今も自分の中にあるんですが。
腸よりも大切な心臓でも厳しいでしょう。食肉加工場で働いている人や、外科医、解剖医でもない限り、なかなか現実的ではありません。
外科医だとしても、それが再度自分の中に取り込まれると考えるとなかなか気持ちよく受け入れられないでしょう。
潔癖症もバカにできない
潔癖症は重くなると、強迫性障害という病気になります。ただの行き過ぎたきれい好きとはまた違う話です。
意識の問題なので、普通の人からしたらバカバカしいように思えるし、それこそ気持ちの問題でなんとかなりそうなもんですが、それがなんとかならないから病気なのです。
よそのお母さんが握ったおにぎりがダメ
近所のおばあちゃんが作った漬物がダメ
お父さんのパンツと一緒に洗濯するな
回し飲みがダメ
公共施設のトイレに座れない
外のウォシュレットは使いたくない
単なる行き過ぎた神経質のように思えますが、始まりは先に述べたような「自分大好きシステム」の延長です。
おおらかな人は幸せ
細かいことは気にしない、落ちたものでも笑いながら拾って食べる。そんな人に憧れます。
余計なことに気を取られていちいち不快な思いをする人生なんて疲れてしまいますから。
自分と外部を分ける、というか自分の立ち位置を認識する脳の領域があります。それを空間定位の領野というのですが、そこがぶっ壊れた人はめちゃくちゃハッピーになるらしいのです。
実際に体験した人がいて本にもなっています。ジル・ボルト・テイラーさんという神経科学者が、自分が脳出血になって空間定位の領野が壊れていく時にどうなったかを記録したのです。
宇宙と一体化
空間定位の領野は、地図のようなもので、自分の範囲はどこからどこまでかというのを決めているそうです。それが壊れると、自分と外部との境界がどんどん曖昧になって、自分が水みたいになる。
最終的には素敵なことに世界と自分が一致するというのです。
宇宙と一体化とか良く言いますけど、あれは実際にあるんですね。
ブルース・リーの「水になれたら最高」という言葉も単なる比喩ではないということです。
悟りの世界ですね。おそらく、想像の域を出ませんが、一部の日本人や外国の芸術家がのめり込む不思議な植物関係も似たような体験なのではないでしょうか。
一体化し過ぎも困る
宇宙と一体化という体験もしてみたいですが、生き物としてやっていくには必要な機能だからこそ、空間定位の領野は存在している訳で、全てを解き放つのも考えものですね。
他人を気持ち悪いとう感情や、友達の家だと落ち着かない性分も、ある程度は必要な感覚だということです。
極端な方向へ走らないように制御しつつ、あとはストレスがないように暮らすのが一番です。他人に過剰に嫌悪感を抱く自分に苛立ったり、逆に潔癖症の友達に腹を立てたりしてもあまり良いことはないのです。
おそらく彼らは死ぬまでそのままです。空間定位の領野が侵されない限りは。
やたら妬みや悪口を言う人に会ったら、「ああ、あそこが発達してんのね」ぐらいに思っておけば良いんじゃないでしょうか。
お母さんの凄さと古市憲寿
こう考えてみると、自分の子どもと一心同体状態で1年近く過ごす母ってすごいですね。
それまでの人生で潔癖気味でも何かしらスイッチが入りそうです。入らない人もたくさんいますけど。
子どもの糞便は自分の糞便のようなものですからね。公共ウォシュレットを克服するとまでは言いませんが、意識が変わる、それまでとは違うことは想像に難くありません。父も一緒に少しは変わるはずです。
女の人が地図を読めないのは、もしかしたら世界と一体化しているからかもしれません。
そして、独身男性に屁理屈文句垂れが多いのもこれとは無関係ではないはずです。けっこう前ですけど、何とか社会学者の古市憲寿氏が、「赤ちゃんは別の個体だから電車で喚かれても大人はどうしようもない」とか言って話題になっていましたよね。
社会学者とか、政治学者とか、自分と他者の違いをはっきり認識出来ないと勤まらなそうです。じゃないと日本が世界とズレているなんて、言えません。ロケットに乗らずにグーグルアース出来るなんて常人の技じゃないですよ。
だから、新しいことをして一般庶民を引っ張っていく人間がちょっと潔癖だったり、「そこ気にする?」みたいな発言とか行動をするのは無理もない、むしろ好ましいことだと思います。
研究にのめり込んでぶっ飛びすぎるのも考えものですが・・・
まとめ
そんな私はカフェのトイレが苦手です。生まれて初めて痔に気づいたのがカフェのトイレだったからです。
いつものようにウォシュレットの強を使ったら、ハンマーで叩かれたような激痛が走りました。なんの前兆(出したときも痛みはなし)もなかったので、何が起きたのかわからず、一瞬パニック状態に陥りました。
それ以来、外でウォシュレットを使うのはちょっと気を使います。これまでの話と全く関係ありませんが思い出してしまったので記録に残しておきます。
私は友達のお母さんのおにぎりとか結構好きです。外の家庭の味もたまには良いもんだと思っていますが、どうなんでしょうか。統計でもあれば知りたいですね。
この本は色んな意味でかなり興味深いです。脳卒中の闘病記でもあるので、参考になる方もいるのではないでしょうか。