古舘伊知郎の芥川賞批判がしつこく取り上げられています。
「報道ステーション」で、
「みんなすごいなとは思うんですけど、それとは別に芥川賞と本屋大賞の区分けがなくなった気がするんですけどね」
「芥川賞と明らかに、時代が違うっていえばあれですけど、僕なんかの年代はあれ?って気もちょっとするんですけどね」
と言って、みんなに攻められている、らしいです。
実際に見たわけではないので、わかりませんけど。
芥川賞は雑誌の宣伝のためにやっています
Wikipediaを見ると、
芥川賞は、大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。
設立者の菊池自身は、「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりとその商業的な性格を認めている。
「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)
とあります。
だから、別にいいんじゃないの。と私は思います。
フジロックはフジロック。紅白は紅白
フジロックのヘッドライナーはフジロックらしい人がやるべきだし、
紅白のトリは紅白らしい人がやるべきです。
でも、そこには世間の勝手なイメージとは別にフジロックの事情があるだろうし、NHKの事情がある。
主催者の都合が反映されるのは当たり前です。
特定の団体で多数決をしたら、特定の団体の色が出るのは当たり前です。外部の人間はどうしようもありません。
それをなくせとみんな言うんですね。
本屋大賞と区別しろ
古舘伊知郎は、芥川賞と本屋大賞の違いがなくなっていることを嘆いています。
気持ちはわかりますけど、本屋大賞なんてはじまったの2004年ですよ。芥川賞は1935年。
あとから始めた本屋大賞の方が選び方を考えるべきだと思うんですけど。
本屋大賞のキャッチコピーは、
「全国書店員が選んだいちばん! 売りたい本」です。
「売りたい本」です。
芥川賞は芥川賞らしい作品を選ぼうとしているそうです。
たとえそれを徹底しても、文藝春秋が、芥川賞作品を、純文学を流行らせようと必死になったって別に誰も文句は言えません。
どっちも宣伝目的なのだから、売るためにやっているのだから、芥川賞と本屋大賞のキャラ被りは普通にありえることです。
芥川賞は素人には理解できない難しい純文学作品が選ばれてほしい。
本屋大賞はバカでもわかる売れる本を選んで欲しい。
というのは周囲の勝手な願望です。